時間

明日は月命日。
とても長い時間が経過したように錯覚するが、4か月が過ぎている。


どうしてこんなに長く感じるのか、少し考えてみた。
感情の起伏の激しさと、心の変化が激しいから、なのかな。

身を裂かれるような悲しみと虚しさ、hくんが決断したときの苦悩、決行したときの苦しみを思うと頭がおかしくなりそうだった。
今でもそれは変わらないが、そのことに思いふける時間が少なくなってきているのを感じる。
顕著に感じたのは、先日お線香を上げに来てくれた一番の友達のkくんの言葉を聞いてからだ。


「hは誰かに心配されることを一番嫌がるやつだったから、ただそばに寄り添って毎日を生きています。」


hがいない悲しみではなく、hの思い出、存在を思いながら日々を送るようにしている、ということ。


今までの4か月、いろいろな人が来てくれた。
私の話をただ黙って聞いてくれた人。
自身の辛い思い出をカミングアウトして痛みを分かち合ってくれた元同僚。
もう涙が出ない、辛い、私は冷たい母親なのか、との問いに
「いつも心が泣いてるじゃんか!」と涙を流してくれた友人。
ひたすら、差しさわりのない話をしたり、どこかに連れ出してくれたり、私の安否を気にかけてくれる友人。


そして辛いのは同じなのに、毎日明るく仕事の話をしたり、日常の会話を一生懸命発して、寄り添ってくれている元主人と長男。


「周りの人たちに生かされている」


あのね、hくんでしょう?
hくんがそのようにさせているんでしょう?と問いたい。


一番つらかったころ、落ち込んでどうにもならなくなると、hくんが大事にしていた猫たちが慰めに寄ってきてニャーニャーとじゃれてきてた。
スーパーの帰りに、「もうhのところに行こうかな」って思いながらトボトボ歩いていると、偶然、心配してくれる友人とバッタリあったり。


他にも思い当たることがたくさんある。


台所に立っているとき、トイレにいくとき、お風呂に入るとき、そういう行為をしながらも悲しみがあふれると「母ちゃん、ごめん」っていう明るくて軽めの声(空耳?)が聞こえる。


ご飯、お菓子とかを用意すると、「母ちゃん、コレも食いたい」って無邪気な声が聞こえる。


昨日お線香上げに来てくれた友人にそういう話をしたらね、
「空耳じゃないと思う。」と自身の亡くなったお母さまの不思議な話を聞いたんだけど、
やっぱりあの世はあるの?


フラッシュバックはあるけれど、それも形が変わってきているんだよ。
悲しみと苦しみが100パーセントだったけれど、それが今は「hの今生の最後だから忘れてはいけない」って思えるようになったんだよ。


かあちゃん、強いよね?
がんばるよ!
いつかお迎えがくるその時まで、精一杯がんばるから見ててね!h!
できればhも私の体の中に入ってきて一緒にがんばりたいけれどさ。


向こうで逢えたら、hの明るい声で「おつかれ!」って聞かせてね。